三省堂大辞林では、認識とは「物事を見分け,本質を理解し,正しく判断すること。また,そうする心のはたらき」 であり、「人間(主観)が事物(客観・対象)を認め,それとして知るはたらき」だと説明されています。
では、ここで小学校の図画工作の課題です。「外から中が見えないけど、中に何があるのか誰でも認識できる箱を作りなさい。なぞなぞではありません」と教師Lが生徒に指示しました。生徒Dが「そんな箱あるわけないじゃん」と言うと、生徒Eが「箱を振ったり、光を当てたりすればわかるよね」とアイデアを出しました。しかし、教師Lは「動かしてはいけないし、光を通すこともできません。ピッタリと密閉してください」と条件を付けました。
すると、「それじゃあ無理だよ」「そんな箱を作れる人がいるわけないよね」「密閉して置いてあるだけの箱なのに、中に何があるのかわかるわけありません!」と、生徒達は口々に反論しました。そんな生徒達に対して教師Lは「黙れ!中に何があるのか誰でもわかる箱は作れるんだよ!」と、いつものように威張り散らして怒鳴りました。これが我が家の最高裁での決定です。
滅茶苦茶ですね。密閉された箱の中に何があるのかわかる人は、その箱を作った人だけです。にもかかわらず、私にもわかったはずだと極めて知能の高い人達に決め付けられてしまいました。私の頭がおかしいのでしょうか。私の目に欠陥があるのでしょうか。私はこれまでの人生で、知的障害であるとか身体障害であるという指摘は受けていません。なぜ、建物引き渡し時に、密閉された壁体内部に瑕疵や不法行為があるとわかるのか、私には理解不能です。最高裁の判事は、自分が立法府の長にでもなったつもりでしょうか。これでは最高裁こそが法的不安定の源です。